「創立35周年を振り返って」

  代表理事 冨永幸子

今年2023年5月1日で当会は創立35周年を迎えました。

1988年5月1日に友人たちと国際ボランティアの会(IV-JAPANの前身)を設立しました。

インドのペンフレンドと日本で再会

実は私の国際活動の関心は小学校5年生の時に百科事典でインドのサリーの着付けの連続写真を見たときにはじまります。きれいなサリーを見て「私も着たい!」と思って、英語を習い始め、中学校に入って、先生に英語クラブを作りたいと言いましたら、直ぐ賛成していただき、インドのペンフレンドと文通を始めたのが始まりです。彼女の結婚したお相手は外務大臣、州知事を歴任しましたが、残念なことに病死し、彼女とは今でもインドと・ラオスの行き来が続いています。

高校生時代のGS仲間

そして、中学生の時に直に交流したいと思い、電話帳でガールスカウト(GS)の本部を見つけ、神田神保町のYMCA同盟ビルの中にあったGSを訪ねていきました。当時東京には10ケ団しかなく、自宅の近くの古川庭園で集会していた東京14団を紹介されました。バラ園でも有名な古川庭園は良く外国のGS関係者が見えました。

GS活動の中で新しい国際教育として「開発教育」を学びましたのはリーダーになってからです。1980年~81年にタイに在住した時にはタイGSのお手伝いをし、インドシナ難民キャンプでタイのGSがタイ語を教えていて、私もタイGS の制服を着てもぐりこんで見学させてもらいました。銃を担いだ女子兵士がジープに同乗してキャンプ内を見学しました。ちょっと緊張しました。

JVCがバンコクの日本人会の中にJVCタイ事務所を開設して難民支援に関わっていて、婦人部にお誘いがありましたが、私はタイGSで活動してましたのでJVCには参加しませんでした。当時息子は日本人会の中にあった日本人幼稚園に通ってましたが、JVC関係者にはお会いすることはありませんでした。最近知ったのですが、別棟にいたようです。

折しも1981年に開発教育協議会が日本で設立され、GSの松下俱子さんより誘われて、直ぐ会員になりました。開発教育は私に大きな影響とやりがいを与えてくれました。

1981年帰国後の大宮には、1975年のラオス革命後ラオス難民が300人ほど定住してました。きっかけは大宮でゴルフ場などを手掛けていた土木会社の社長が、革命前ラオスで病気になり手厚い看護を受けたことから、ラオス難民に社員寮を無料で提供したことが始まりです。当時の大宮市の要請で帰国子女保護者会を設立し、ヒョンなことから会長を引き受けることになり、5年ほど活動しました。帰国子女とは日本人だけでなく、中国引揚げ子女、インドシナ難民子女も含まれ、ラオス人との交流が始まりました。現在も彼らとはお付き合いが続いています。帰国子女教育も開発教育と考え方は同じです。先進国も途上国も同じ地球市民、共に生きるパートナーとして助け合っていくことです。

1988年に「国際ボランティアの会」を創設して、活動の場を当時貧しかったアジアに移し、「カノック奨学金」を開始し、GSの実践で学ぶ教育方法を取り入れ、経済的自立のための職業訓練を主に活動をまずタイから、1994年に豊かになったタイから活動を東南アジアの最貧国ラオスへ移して25年になります。

お陰様で、1988年に設立以来、職業訓練でタイ・ ラオスの人材育成を実施し、カノック奨学金は8500名に支給することができました。当初タイ支援から始まったカノック奨学金はIV-JAPANタイ財団が運営し、現在は若い人たちによっ て引き継がれ、タイの法律が変わりワークパーミットを持たない外国人は理事になれなくなりましたので、私は顧問として今後も応援していきます。

コロナ過で経済に大打撃を受けたラオスですが、大規模奨学金の「チャンパー山の民奨学金」や「カノック奨学金」の皆様のおかげで何とか職業訓練を続けて、約3500人の卒業生を輩出することができました。 年1回卒業生が私の家に集まってくれてみんなの成功した姿を見ることは私の喜びです。79年も長生きしたおかげと思っています。

ラオスで茶道も生きがい

今後は何がラオスの若者のために出来るか、「出稼ぎをなくし、ラオスで自立できるように」が目標です。1990年に東北タイのスリンで若者の出稼ぎが多く、地元に残されているのは幼児と老人で、乾季でも農業ができるようにとショベルカーを2台送ったことが思い起こされます。タイの現在の発展は驚くばかりです。ラオスが現在当時のスリンと同様の状況ですので、生きている限り何とかできないかと思っています。

今後もどうぞよろしくお願いいたします。

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