冨永幸子
冨永幸子

私は人生の半分近くをIV-JAPANと歩んできました。

また、ラオスに住んで25年以上が過ぎました。

今思い出しますと、小学校5年生の時、百科事典を見ていて、インドのサリーの着方の連続写真が出ていました。「ああ、きれい、私も着てみたい」と瞬間思いました。それで英語を習い始め、中学1年生の時にインドのペンフレンドを持ちました。彼女とは今もお付き合いしています。

もっと国際的な活動がしたくて、中学3年生の時にガールスカウトに入団しました。当時は東京に10ケ団くらいしかしかありませんでした。60年以上も前のことです。リーダーとなってから新しい国際教育としての開発教育を学び、それがIV-JAPANの原点となっています。

先進国であれ、開発途上国であれ、お互いに助け合って暮らしは成り立っています。ですから「みんなが幸せに暮らすには、自分に何ができるか。できることから行動しよう。」というのが開発教育の考え方です。

たまたま1980~81年にかけてタイに住む機会があり、タイの東北や北部の貧しい農村や難民キャンプを訪問し、帰国してから、IV-JAPANの前身の国際ボランティアの会を1988年に立ち上げました。

タイ国では奨学金支給と農村開発を開始しました。奨学金ドナー(協力者)は友人・知人に呼びかけて1年目から100人以上の方にご協力いただきました。

1994年からはもっと貧しいタイの隣国ラオスに活動を移しました。これは大宮に当時およそ300人のラオス難民が住んでいて、難民の皆さんからラオスを支援してほしいとの要望によって職業訓練を始めましたが。縫製、調理、理美容、木工家具を行っておりまして卒業生は2500人を超えています。

ビエンチャンのホテルやレストラン等では卒業生が何人も就職しています。起業している卒業生も多いです。街で時々卒業生に声をかけられることがあり、とても幸せに思います。

一人の起業卒業生の事例をご紹介いたします。

理美容職業訓練卒業生で美容院を開業しているブンさんです。彼女は中学を卒業すると、北部サムヌアの片田舎家から3日間を要して首都のビエンチャンに出てきて、17歳で結婚し、職業訓練所に入ったときはすでに2児の母親でした。夫は3回も家出を繰り返し、女性と同居して2~3年は家に帰ってこないので、彼女一人で子どもを育てました。美容の技術のお蔭で生活できたと、感謝されました。

彼女自身の努力も素晴らしく、今では技術が確かでセンスもよいと人気の美容院になり、ラオスの平均収入の10倍を稼ぎ、自動車を持ち、家も建設中です。17歳の長男は留学試験に受かり中国で勉強中です。長女は高校を卒業したら美容師になると言って、せっせと美容院を手伝っています。

彼女が起業するときは村の「無尽とか頼母子講」と呼ばれる庶民金融の一種に入り、資金を借りて美容院を開始、また、ラオスの雑誌社に広告を出そうとして訪問したら、逆に取材されて、大きな宣伝になりました。私も友人知人を紹介し、外国人や日本人もたくさん顧客にいます。

現在彼女は40歳を超えましたが、夫は仏門に入ってしまい、もう夫を当てにしない、50歳までは休みなく働いて、後は楽をしたいと、言っています。

この30数年の間には会がつぶれてもおかしくない時が何度もありました。当会は大きな支援組織がバックにあるわけでもなく、一主婦が始めた小さな会ですが、そのつど多くの助っ人が現れて、危機を脱してきました。ラオス各地に学校や職業訓練校を30校ほど建設できました。本当に皆様のお蔭です。それと今も健在の母です。いつも応援してもらい感謝です。

2019年には現地視察の帰りに自動車事故で九死に一生を得ました。命が助かったことに感謝し、また生かされていることは与えられた使命と感じて、ラオスやネパールの人々のために頑張りたいと思います。

                                    冨永幸子