スタディーツアーの思い出(2005年11月)

理事の斎藤です。

17年前のスタディーツアーで訪ねたビエンチャンとシェンクアーン県での経験を綴ってみました。

スタディーツアーの参加者は7名でほとんどがリピーターでした。ビエンチャンでは職業訓練の見学、タソモ小学校を訪問して全校生の身体測定、稲田師範の指導で高学年は書道を体験しました。

11月16日空路シェンクアーン県に移動。そこはビエンチャンより400キロ北方に位置し無数の石壺が散在するジャール平原で知られています。所要時間空路30分。陸路は8時間で、時々山賊が出るとのうわさが流れていた。そんな辺鄙な地域でIV-JAPANは1996年から職業訓練と識字教育の支援をスタートし、2003年に「山岳民族生活改善のための村落開発」プロジェクトを新規開始。山岳部に住む貧しい村で村民が主体となった米銀行や家畜銀行等を推進していた。

*米銀行とは、村民が米を出し合い共同で保管して必要な人に米貸し出し、収穫時に利息分を付けて返却するシステム。

*家畜銀行とは、家畜(鶏や豚など)をペアーで貸し出して飼育、産まれた子で返済するシステム。

飼育指導や農業指導は、オーストラリア人の専門家を招聘。会計責任者は女性にした。(男性はお酒を買ってしまう心配有り)

冨永代表の話によるとその頃のシェンクアーンには取引出来る銀行が無かった為、必要なお金はビエンチャンでお札をリュックに詰め当時の副代表の藤田さんと2人で運んでいた。予約していた飛行機が急にヘリコプターに変わっていて、籠に入れた家畜と同乗した事も有ったとか。

シェンクアーンの1泊目はカム郡の温泉村のゲストハウスに宿泊。

11月17日朝7時に出発。シェンクアーン県教育課に挨拶して近くにある山岳民族の「女子生徒宿泊施設」を見学。その後は長距離移動でベトナムとの国境近くにあるノンヘト郡タムスア村に向かう。IVがずっと支援しているモン族の村で世帯数は53戸、郡の中で最貧の村です。国道から悪路を車で30分上った所に小学校や集会場が有った。車が到着すると合図の鐘が鳴り子ども達が集まって来た。この時期は収穫期で親達は遠くの畑に出かけて不在。お年寄りと子ども達だけで留守番をしていた。お土産の衣類や文房具を渡すとはにかみながら受け取る。集会場の近くに住む方が急いで家に帰り民族衣装に着替えてくれて一緒に写真を撮りました。気配りが嬉しかった。

子どもを抱っこした若い先生が冨永さんとの再会を喜んだ。先生は17才で子供を連れてふもとの村から毎日徒歩で学校に通ってます。ラオスの地方では正式な教員が不足しているため、小中学校を卒業していれば2週間程度の研修を受けると代用教員として正式に雇用されます。代表によるとこの村の当面の課題は、老朽化している教員寮と高学年の教室の建て替えです。

最後の訪問先はカム郡ナーパイ村。そこで開催されたカム郡IVプロジェクト報告会に出席しました。この村はⅣ-JAPANが2003年にシェンクアーン県で始めたプロジェクトに最初に取り組んだ村です。20人位の村人が出席していました。今年もⅣ-JAPANが昨年同様オーストラリア人の家畜飼育専門家を招聘、村人が鶏の飼料の作り方等を学んだ。家畜銀行と米銀行も順調との報告。IVの支援に対して参加者一同が感謝していました。

暗くなる頃に県都ポンサワーンの高台に建つワンサナホテルに到着。

11月18日はジャール平原の半日観光。巨大な石壺があちこちに転がっていて圧倒された。石棺なのか酒壺か米壺か?今も謎でラオス最大のミステリーと言われている。

昼食後ビエンチャンに帰る為シェンクアーン空港へ。私達を迎えに来たのは12~13人乗りの小型機で驚いた。海外の旅行者が大きなスーツケースを持っていて重量が気になったが、私達の荷物は2泊分なので軽くて良かった。飛行中はプロペラの音が大きかったのと風が強くてかなり揺れたが40分後にビエンチャン空港に無事着陸。皆で拍手して無事を喜んだ。

2005年のスタディーツアーではIV-JAPANの活動の原点を知る事が出来て感動しました。17年後の今も時代に沿った活動を継続中です。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

前の記事

IV-NEWS vol.46発行

次の記事

伝えることの大切さ