特別な日

 理事の池田敏秀です。

 20世紀の終わりに最初にラオスに行ってから20年以上たつが、前半は大名旅行、後半は貧乏旅行だった。最初はマイレージが残っていたのでJALばかりを使っていたが、この会社は傲慢で、途中バンコクで荷物を引き取るように指示される。「ラオ航空のような会社にお客様の大切な荷物を預けられません」と高飛車なのだ。だからいつもカウンターで言い争いになる。それでもいつも論破し、いやひれ伏してお願いし、荷物が破損しても文句は言いませんという念書を書き、この意地悪から逃れる。そんな旅を10回はした。考えてみればボランティアをしようとする人間がビジネスクラスに乗り、リッチなセタパレスやラオプラザに泊まるのだからまるで節操がなかった。そして同行したある化粧品会社の社長の希望で一緒にアマンタカに泊まるに至り、良心の呵責は最大値になった。

 ところがそれからは会社をリタイアしたこともあり、質素な旅へと急転回する。航空会社もベトナム航空に変わり、ビジネスクラスにも縁がなくなった。座り心地は悪くなったがベトナム航空は親切だ。日航のような意地悪はしないし、ボランティアだと申告すれば倍の荷物量を許可してくれる。病人が出た時など本来は使えないラウンジまで提供してくれた。

 東日本大震災のあった年の秋、資生堂の現役社員など20名をつれてラオスに入った。小学校訪問やらメーキャップコンテストなど濃密なスケジュールだったが、このツアーには半年前の震災に心を痛め義捐金を贈ってくれたラオスの人に御礼をしたいという目的があった。広告会社や文具会社からの支援もあったが、ツアーの予算は予想以上に膨らみ、イベントの縮小も考えた。ところが神風が吹く、総費用500万円をドルに代えた10月31日、円高の日本記録が生まれたのだ。1ドル75円台でドルをゲットできた幸運はスタディツアーの充実に貢献した。いまでも神様の配剤だと思っている。

 ツアーの途中、11年11月11日11時11分を迎えた。記念のスタンプが欲しくてビエンチャンの郵便局に行くが、その趣旨を伝えることが出来ず、時は残酷に過ぎてしまった。このときの男性通訳はどこかの博物館の文芸員というふれこみだったが、怠け者で、レストランを間違えたかと思えば、タートルアンの大祭では雨の降りしきる雑踏に我々を残してさっさと行ってしまうなど大失敗の人選だった。ちなみにルアンパバーンではイエンちゃん(冨永代表のブログ参照)が通訳をしてくれたので、楽しい旅をすることが出来た。

 そのイエンちゃん、すっかり大人になり、お母さんにもなったようだが、最初会ったときはその童顔にびっくりしたものだ。「今日、私は20歳になります」と言ったのは2度目に会ったときだが、何かお祝いをと思っても何もなく、やむなく冨永さんに差し上げるつもりで持ってきた化粧品をプレゼントした。そのあくる日、不自然に塗った口紅を付けて我々の前に現われたが、何と言ったらいいか困ってしまった記憶がある。その後彼女へのお土産はいつも化粧品になったが、やや日焼けした肌に似合いそうなものを見繕っている。

ところでラオスにはもう8年も行ってない。町が様変わりしていると聞くと余計行きたくないが、いろいろな思い出が上書きされる怖さを覚悟しながら、コロナが収まったらそろそろ行ってみようかと思っている。