冨永さんとの出会い

 理事の池田です。

「欧米の経営者は来日すると日本の文化や歴史に興味を示すが、日本の経営者は外国に行ってもゴルフと観光しかしない」そう嘆く資生堂と富士ゼロックスの社長が作った勉強会が『アスペンクラブ』。いろいろな企業から集められた社員が木更津の山の中のホテルで1週間、20冊近い哲学書や古典を読み、議論し、一方でゲストとして招聘される著名なアーティストの文化に浸ると言うリッチな集いで、できればお断りしたい会だった。

 私はここで冨永代表と会う。ちょうど20年前の7月だ。冨永さんは招待客だったが、とりたてて特典は無く、一参加者として勉強会に参加していた。苦痛だったと思う。

 「資生堂の人なら、これからラオスで作ろうとしている職業訓練の理美容コースの設立を手伝ってくれない?」冨永さんは休憩時間に唐突にこう言ったが、「ソクラテスの弁明」や「学問のススメ」で気分が高揚していたこともあって、二つ返事で承諾してしまった。 

 軽く返事をしたつもりだったが、気がつけば冨永さんはラオスで着々と外堀を埋めていた。動かざるを得なくなった。ところが外面の良い会社ほど石橋を叩いても渡らない。資生堂も例外ではなかった。商品の供給を当てにしていた部門も、美容部員の派遣をお願いするつもりの部門も一度のお願いでは承諾しない。私のように単純な動機や心意気では動かない。結局、役所と同じで、くだらない書類がいくつか要求される。でもここまで来ればもう大丈夫、作家のはしくれは美辞麗句を並び立てこの困難を乗りきった。

 それから20年、あとは自分の判断ですべてを行った。会社は私のやることに何一つ文句を言わなかった。おもてなしの作法を教えに行った2人の美容部員も、寮の設計に行った系列会社の社員も、彼らの属する部署には事後通達だけで済ませた。強引かもしれないが、事前に伺いを立てれば停滞が待っているのだから、そんな無駄な時間は作りたくなかった。

 いま思えばアスペンセミナーが縁でIVの歴史の中に資生堂の名を入れてもらえることが出来、スタディツアーなどでも多くの社員にIVを知ってもらった。それだけで木更津での一期一会の意義はある。25周年、30周年のセレモニーの会場を貸してもらった資生堂美容学校にも縁を感じる。ここの元校長は「ラオスの職業訓練校で学ぶ生徒のマインドを移植したい」と言い、30周年で来日した訓練校一期生でラオスで起業しているブンさんは「娘をここで学ばせたい」と言った。進んでいる学校も遅れている学校も「美」という一つの共通項でつながりを持てるということはすばらしいことだ。ところで件のアスペンセミナーだが、このとき私以外にも2人の参加者が、冨永さんに上手に釣られ、その後私よりはるかに大きな貢献をIVにしていることを補足して今回のエッセーを閉じる。