ラオスと私

 次は代表理事の冨永幸子が在ラオス日本大使館の日ラオス外交関係樹立65周年記念連載「ラオスと私」に寄稿した記事です。

※在ラオス日本大使館のFacebookのページ

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 1994年3月友好橋が開通する1か月前にフェリーでラオスに初めて参りました。

 当会IV-JAPAN はタイ東北のスリン県で農村開発や職業訓練を実施していましたが、IV-JAPAN日本事務所のある埼玉県大宮市(当時)に在住するラオス難民から、ラオスの支援もしてほしいと言われ、当時大宮には約300人ほどのラオス難民が住んでいました。難民の友人に通訳として同行してもらい、最初に訪れたのがシェンクアン県でした。県都ポンサワンからはノンヘット郡まで2日間もかかり、途中、宿はカム郡の温泉宿一軒だけで、食料も持参でした。道中、トイレもなく、畑の中のトイレをお借りするのですが、それが土を掘った穴に屋根と囲いのあるものです。「ああ、ガールスカウトのキャンプと同じ、ガールスカウトでよかった!」と思いました。道端には白や紫のけしの花も咲いていて、当時けしは山岳民族の大事な収入源でした。

 1997年からはビエンチャンに事務所を構えますが、当時は電話とFAXで通信し、固定電話の設置を申し込んでも1年待ちでした。今のようにFBやテレビもなく、事務所には日本人は私一人で、10年間は日本語を話す相手もいませんでした。一人でどうやって過ごしていたのか?

 幸いなことにラオスにはキム(琴)という素晴らしい楽器がありました。それに魅せられて5年間夢中で習い、色々な曲が弾けるようになり、とても楽しく過ごせました。2010年にビエンチャン遷都450年祭記念に国花「チャンパーの花」公演会が文化会館で開かれ、「チャンパー ムアン ラーオ」の作曲者のお嬢さんのウタキ・チュラマニーさんがチャンパーの花の解説や亡き父の思い出を語り、音大の生徒や先生がチャンパー ムアン ラーオをいろいろな楽器で演奏し、私も招待され、「チャンパー ムアン ラーオ」と「メナムコーン」の2曲を演奏させていただきました。「チャンパー ムアン ラーオ」は国民に一番ポピュラーな曲で、日本の「赤とんぼ」や「ふるさと」のようなもので、歌詞も、遠く離れていてもチャンパーの香りは懐かしい故郷や父を思い出す、、、「メナムコーン」はメナム川はたくさんの恵みを人々に与える、ゆたかな水、涼しい風、、、

 キムの音色とともに、歌詞にも見せられました。豊かなラオス文化とともに私を支えてくれているのは、約2,500人の縫製、理美容、調理、木工家具、ホスピタリテイ・介護の職業訓練卒業生の存在です。

 ビエンチャンのホテルやレストラン等では卒業生が何人も就職しています。起業している卒業生も多く、町で時々卒業生に声をかけられることがあり、とても幸せに思います。今年は大けがからの快気祝いのバーシーを卒業生が企画して50人も集まってくれました。職業訓練生は私の宝物、ラオスの家族です。

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