外務大臣表彰をいただいて ~ラオスに生かされて~ (第1部) 

代表理事の冨永幸子です。

【父の教育】

父はニューギニアで終戦を迎え、1割に満たない生き残りで、帰ってきました。加藤大介が書いた「南の島に雪が降る」で有名な小説がありますが、同じ部隊に居たそうです。つくづく平和が大切と、それで子どもは娘4人でしたが、教育には熱心でした。私は現在77歳ですが、10歳くらいの時に父が毎月雑誌を姉妹4人に取り寄せてくれて、私は世界百科事典が毎月届くのが楽しみでした。「インド・パキスタン」編が届き、サリーの着方を示した連続写真を見て、「私も着てみたい」と思いました。

それで中学1年生の時に担任の先生に英語クラブを作ってもらい、インドのペンフレンドができました。65年たった今でもお付き合いしてます。実は写真の左と真ん中がマンジュというペンフレンドです。面白い後日談があります。1968年にインドでマンジュの家に泊り、幸子、英語がよく書けたね。でもRとLの発音はよくできないね」と言われ、「実はペンパルという本があって、3月のひな祭りの説明などもその本から丸写ししたのよ」と、種明かしして、大笑いしました。13歳の子が書けるわけはないのです。マンジュが結婚したお相手はのちに外務大臣(State Secretary)になりました。

 14歳の時にもっと国際的な活動がしたくて、電話帳で調べて神田のガールスカウト本部へ伺い、自宅近くの団を紹介してもらいました。集会所がバラの庭園で有名な古川庭園でしたので、外国のガールスカウト関係者が来日するとよく団を訪問され、いろいろな国の人と会う機会がありました。

【ガールスカウトの教育】

ガールスカウトはイギリスで発祥していますので、入団の条件にベッドメーキングや10種類の縄結びなどができることと共に、「10のおきてを守ります」と誓いますが、特におきての「ガールスカウトは倹約します」はケチではないが物を大切にすることは身に付きました。今でも歯磨きチューブは終わりになると半分に切って空っぽになるまで使い、口紅は終わりまで使い切ります。私の上をいく達人の職員がラオスに居ました。飲料水を買わずに水道水を沸かして冷まして飲んでいるというのです。彼女は家賃も含めて月500ドルで生活できていました。また、ガールスカウト教育は「Learning by doing」実践教育が基本でした。これは現在の職業訓練に活かしています。知識はあっても実力がないのでは役に立ちません。ラオスで初めて職業訓練にOn the Job Training (OJT)を設けました。これで確実に実力が付きます。

【新しい国際教育としての開発教育】

ガールスカウトの活動の中で新しい国際教育として「開発教育」に出会います。1980年に夫がタイの大学の客員研究員になった機会に息子と一緒に合流しました。日本で息子が登園拒否になったので、家族は一緒がいいと、バンコクへ行きました。日本人幼稚園でお手伝いさんがいないのは私の家だけで、なんでも自分でしましたが、それがかえって良い経験になり、タイのガールスカウト連盟でタイ料理も習い、インドシナ難民キャンプにももぐりこみ、東北タイや北タイで農村開発も経験させていただきました。40年前は日本人の駐在員の奥様達はタイ料理を習っても役に立たないからとフランス料理を、タイ語よりも英語を習っていました。帰国時にカノック・ガールスカウト会長より依頼され、カノック奨学金事業を立ち上げました。それがIV-JAPAN の前身の「国際ボランティアの会」です。同時に日本で1980年暮れに開発教育協議会が発足するとすぐ入会しました。このような経験がIV-JAPANの活動の基本になっています。

【タイの農村開発と奨学金】

最初は東北タイのスリン県で出稼ぎをなくすため、ショベルカー2台を寄贈して運河や溜池作り、乾季にも野菜作りができるようにし、溜池には魚の養殖、養鶏も始めました。スリン県と北部チェンライ県の農村の子どもたちにカノック奨学金を支給しました。子どもたちは「Non-Formal Education」=学校制度外教育で学んでいる子たちです。これは開発途上国で実施されている制度で、通学過程に通えない生徒が、通信教育でもないのですが、普通過程より時間数が短くカリキュラムが作られていて、卒業しやすくなっています。

奨学金支給の生徒たちと卒業要件にあるワークキャンプに一緒に参加しました。山の上のリス族の村に図書館を作るワークです。麻袋を担いでいる生徒の袋が動いています。生きた鶏を食料として入れていました。翌朝、生徒が竹でバトミントンのラケットのようなものを編んでいます。何かと思いましたら、外国人の私がお米を食べないと思って、パンを焼くために作っていたのです。子どものやさしさに感動しました。野ネズミを捕まえて、弱火で上手に毛を取り、料理するのも初めて見ました。皆、鉈(なた)やナイフの使い方はお手の物で、たくましさに感心しました。キャンプの翌日チェンマイ大学で日本料理の講習を引き受けていたのですが、体が言うことを聞かなくて、うとうとしながら何とかこなしました。このキャンプで私は沢の水が原因かと思いますが、A型肝炎にかかったことを帰国してから知りました。

【大宮のラオス難民との出会い】Think Globally, Act Locally  

ラオスとの関りは、1980年代当時、埼玉県大宮市にはラオス難民が300人も住んでいました。大宮市が文部省から「帰国子女教育研究指定地域」の指定を受け、保護者会を作らないかと呼びかけがあり、私がガールスカウトの経験を生かしてお役に立てればと参加しました。帰国子女とは中国引き揚げ子女、インドシナ難民子女も含まれました。帰国子女教育とは何なのか、皆目わかりませんでしたが、活動するうちに開発教育を取り入れればよいことに気づき、ガールスカウトの高校生たちに手伝ってもらい毎年帰国子女キャンプを一般の日本の子どもも含め開催しました。毎回感想文を書いてもらいますが、帰国子女は「お父さんは偉い、途上国は遅れていて手で洗濯しているが、お父さんはそういう国で日本の進んだ技術を教えている。」 保護者会でその作文を取り上げ、洗濯機を使わない途上国は遅れているのでしょうか?と聞きますと9割の親が「そうだ」と答えました。洗濯機を使うと手洗いに比べ水の量はたくさんいるし、洗濯機を買うのも高い。手洗いは現地の事情に叶ったやり方でした。親にも国際教育・開発教育が必要でした。

ラオス難民の子は毎日下駄箱の靴が隠されたり、室内履きの中に鋲(びょう)が入っていたりと、いじめにあっていました。幸いタイ語が少しわかったので、難民の子たちが学校帰りに寄ってくれて、時にちまきを作って持ってきてくれたりしました。今でもみんなと繋がっています。

(続く:第2部10月6日配信)