藤田迪枝さんのこと

 理事の池田です。

 藤田さんと初めて会ったのはまだ私が化粧品会社に勤めていたころだから20年も前のことだ。銀座の十字屋ホールで民族衣装のファッションショーを行ったが、このとき会場にはシルクのショールなどラオスの工芸品を売るコーナーがあり、それを仕切っていたのが藤田さんだった。

 バンサトリーと名づけられたその活動は、ラオスで買ってきた工芸品を日本で売り、いくばくかの売り上げ金をIVに寄付すると言う趣旨だったが、その売り上げ額は到底彼女の渡航費用などをまかなえるものではなかった。おそらく自腹を切り、この活動に取り組んでいたのだと思う。IVの理念に共鳴する人の心意気を見る思いだった。

 その数年後、バンサトリーほどの高潔さは無いが、私も肌箋舎という小さな化粧品会社を作り、何らかの金銭的貢献をしようと考え、化粧品を包むシルクのポーチと小売店に支給するカリンの什器を職業訓練校から調達した。卒業生の雇用を創出する目的もあった。

 この姿勢を藤田さんはほめてくれた。そしてなんと化粧品を取り扱う代理店にもなってくれた。化粧品販売のプロではないので心配したが、あるとき見せていただいたテキストには赤いラインがたくさん引かれていた。今思えば藤田さんの肌はとてもきれいで、化粧品に関する知識はもともと持っていたのかもしれない。肌箋舎のホームページには取扱店一覧を載せてあるが、勝手に「バンサトリー藤田」という名称をつけてしまった。藤田さんがこれを見たかどうかは定かではない。

 藤田さんは時々、肌箋舎を訪ねてくれた。おやつを食べながらIVのことをときに辛らつに語ったが、私には心地よく伝わった。言葉の節々にラオスやIVへの思いがほとばしるからだ。

 藤田さんは私の作る農産物もほめてくれた。米、サツマイモ、イチゴ、栗…。とりわけ栗にはご執心で、1年後にはマロングラッセとして帰ってきた。とても美味しく、収穫時期には期待をこめて大き目のものを選んで送ったものだ。

 その藤田さんが2月の終わりにご逝去された。

 去年の暮れ「出来たからいつでもどうぞ」と言われていたが、マロングラッセをいただきに行くことが出来なくなった。肌箋舎の冷蔵庫にはまだ数個、宝物は残っているが、社員と一緒に藤田さんをしのびながら味わうつもりだ。

 化粧品店「バンサトリー藤田」も閉店になるだろうが、時々思うことがある。藤田さんは化粧品をどうやって売っていただろうか。ひょっとしたらラオス支援を掲げた肌箋舎をつぶさないために仕入れ、知り合いに利益なしで販売していたのではないか、藤田さんの生き様を見れば、そんな思いがこみあげてくる。まさにバンサトリー魂そのものだ。ご冥福を祈ります。